「右半身がやったことは、左半身もやらねばならない。それがこの世界の理(ことわり)である」
ある日、脳内に不穏な独裁者が君臨した。きっかけは、信号待ちで右足にグッと重心を乗せた、あの些細な瞬間だ。
突如、左足が「おい、俺の権利はどうなるんだ」と無言のデモを起こし始めたのである。
これが、私と「左右平等司令部」との長く孤独な戦いの始まりだった。
神が仕組んだ「バグ回避」の初期設定
そもそも、なぜこんな面倒な仕様になっているのか。最近、私は一つの仮説にたどり着いた。
これは、神様が人間という試作機を設計した際に、人が意識するか無意識かに関わらず「左右のバランス調整だけは必須とする機能」だ。
想像してみてほしい。
最初の人間が右足だけでスキップし続け、右腕だけで重い荷物を運び続けた結果、身体が右側にだけ異常発達して巨大な「カニのハサミ」のようになり、左側が退化してヒョロヒョロのモヤシになった姿を。
これでは生命維持どころか、直進することすらままならない。
神様は焦ったはずだ。「やばい、こいつら放っておくと、重心がズレすぎて駒みたいに回転し続けるぞ」と。
そこで神は、人間の無意識領域(OS)に強制的な書き込みを行ったのだ。
if {
action_right > action_left
{
execute_guilt_and_discomfort();
}
}(※もし右の動作が左を上回ったら、猛烈な違和感を与えよ)
つまり、私のこの「左右を揃えなきゃ」という強迫観念は、私が変人だからではなく、神様が人類を「円運動による自滅」から救うために組み込んだ、慈悲深いセーフティネットなのである。
右の罪、左の罰
だが、この神の指令、実に気まぐれである。
右手でペンを持ち、何千文字と原稿を書き連ねても、左手が「俺も書かせろ」と暴動を起こすことはない。全力でボールを投げ込んでも、左肩が嫉妬に狂うこともない。それらは「専門職」として神に免責されているようだ。
しかし、ひとたび「歩く」「立つ」「座る」といった生存の根幹に関わるデフォルト動作に入った瞬間、平等主義の鬼が目を覚ます。
先日などは、横断歩道の白い部分を右足から踏み出してしまった。その瞬間、脳内の平等の守護神が「左側、スタンバイ。次の白線は必ず左足で、同程度の接地圧で踏破せよ」と冷徹に告げた。私は震える足取りで、歩幅を微調整する。右が味わった摩擦の喜びは、左も分かち合わねばならない。
この調整作業をしている時の私は、傍から見れば「見えない地雷を避けながら進む、非常に慎重すぎる不審者」のような、実に芳ばしい狂気を放っている。
階段という名の地獄のルーレット
この「左右の呪い」が最も牙を剥くのが、階段だ。
右足から登り始めたら、最後の一段は左足で終えたい。あるいは、完璧なシンメトリーを保ちたい。
しかし、現世の階段は非情だ。段数が奇数だった日には、私の精神は「余った右足の功績をどうやって左に還元するか」という、ノーベル経済学賞レベルの難問にぶち当たる。
結局、踊り場で誰も見ていない隙を突き、左足だけで「シュタッ」と一回無駄にジャンプする。
三十路を超えた大人が、公共の場で、虚空に向かって。
その瞬間の私の姿は、洗練された現代人というよりは、プログラムにバグが生じて壁に向かって走り続ける初期のオープンワールドRPGの村人そのものである。
結末:究極の設計矛盾
正直、疲れる。
右に傾けば左、左に傾けば右。私の日常は、神が定めた均衡を守るための奉仕活動で埋め尽くされている。
だが、この「左右平等」を極めようとすればするほど、私はある残酷な事実に突き当たるのだ。
そこで神様、最後に1つ言わせてくれ。
あなたは人間に「移動や姿勢の左右平等」を厳格に命じながら、なぜ同時に「利き手」という最大の特権階級を作ったのですか?
「字を書くのは右だけでいいが、歩くときはミリ単位で左右を揃えろ」なんて、あまりに支離滅裂な命令だ。利き手ばかりを重用する特別ルールと、歩行時の鉄壁の平等主義。
この二つが共存している時点で、あなたの設計は、完全に矛盾している。
明日も私は、右手で颯爽とペンを走らせた後、立ち上がった瞬間に「さっき右足に重心を乗せすぎた」と反省し、左足一本でフラフラとバランスを取るだろう。
人類の存続は、私のこの、あまりにも健気で支離滅裂な「微調整」にかかっているのだ。


