Blog / エッセイ

エッセイ

帰り道、月が関を照らしていた

公開日: 2026年5月6日 更新日: 2026年5月6日
エッセイ#日常#月
帰り道、月が関を照らしていた

五月の夜は、少しだけ歩幅がゆるくなる。

日中の気温が上がってきたぶん、日が落ちたあとの空気にはほどよい涼しさが残っている。上着のボタンをひとつ外して、鞄の肩紐をずらす。それだけで、一日の緊張がすこしほどける気がした。

その夜、いつもの帰り道で足を止めたのは、住宅街の角を曲がったときだった。

視界の上のほうに、大きな丸い光。

月だ。満月だ。それも、いつもよりずっと近くて、ずっとやわらかい色をしている。

街路樹のケヤキが、五月の若葉をいっぱいに広げていて、その葉の隙間から月の光がこぼれ落ちていた。まるで、木が光を受け止めきれずにこぼしてしまったかのように。

歩道に落ちた光の模様が、風にあわせてゆれている。

僕はしばらく、そこに立っていた。

あとで知ったのだけれど、五月の満月には「フラワームーン」という名前がついているらしい。ネイティブ・アメリカンの人たちが、花が咲き誇る季節の月にそう名づけたのだという。

花の月。

なるほど、と思った。あの夜の月は、たしかに「光」というよりは「咲いている」という言葉のほうが似合っていた。空の高いところで、音もなく、ただ静かに咲いている。そんな感じだった。

普段、夜道を歩くとき、僕はだいたい下を向いている。

スマートフォンの通知を確認したり、明日のスケジュールを頭のなかで反芻したり、足元の段差に気をつけたり。視線が地面より上に行くことは、正直に言えばほとんどない。

でもあの夜は、なぜか顔を上げた。

理由はよく覚えていない。たぶん、ケヤキの葉が風に揺れる音が聞こえたからだと思う。カサカサ、というよりは、サラサラという音。冬の枯れ葉とは違う、みずみずしい音。五月の葉にしか出せない音。

その音に誘われるように顔を上げたら、そこに月があった。

考えてみれば、月はいつもそこにいる。満ちたり、欠けたり、雲に隠れたりしながらも、毎晩のように空のどこかにいる。見上げさえすれば、いつでも会える。

でも、僕たちはなかなか見上げない。

それは忙しいからでも、興味がないからでもなくて、たぶん「そこにあること」をうっかり忘れてしまうからだ。当たり前にあるものほど、存在が透明になっていく。月も、新緑の匂いも、夜風のやさしさも。

あの夜、僕がケヤキの下で立ち止まっていた時間は、ほんの三分くらいだったと思う。

月を見て、葉っぱの影を見て、風の音を聞いて、それだけ。

でも、その三分間は、一日のなかで一番静かで、一番満たされた時間だった。

オフィスでどれだけ集中しても、カフェでどれだけおいしいコーヒーを飲んでも、届かなかった場所に、月の光はあっさりと届いた。

帰宅してから、ベランダに出てもう一度月を見た。

マンションの五階からだと、さっきとは少し角度が変わって、月は街の屋根の上にぽつんと浮かんでいた。さっき見た「木漏れ月」のほうが好きだな、と思いながら、缶ビールをひとくち飲んだ。

フラワームーンの夜。

花は咲いて、やがて散る。月は満ちて、やがて欠ける。でも、どちらもまた巡ってくる。五月のあの光は、来年の五月にもきっとそこにある。

大事なのは、そのとき顔を上げられるかどうかだ。

今夜の帰り道、少しだけ上を向いて歩いてみてほしい。もしかしたら、あなたの街路樹も、光をこぼしているかもしれないから。