五月の夜は、少しだけ歩幅がゆるくなる。
日中の気温が上がってきたぶん、日が落ちたあとの空気にはほどよい涼しさが残っている。上着のボタンをひとつ外して、鞄の肩紐をずらす。それだけで、一日の緊張がすこしほどける気がした。
その夜、いつもの帰り道で足を止めたのは、住宅街の角を曲がったときだった。
視界の上のほうに、大きな丸い光。
月だ。満月だ。それも、いつもよりずっと近くて、ずっとやわらかい色をしている。
街路樹のケヤキが、五月の若葉をいっぱいに広げていて、その葉の隙間から月の光がこぼれ落ちていた。まるで、木が光を受け止めきれずにこぼしてしまったかのように。
歩道に落ちた光の模様が、風にあわせてゆれている。
僕はしばらく、そこに立っていた。
あとで知ったのだけれど、五月の満月には「フラワームーン」という名前がついているらしい。ネイティブ・アメリカンの人たちが、花が咲き誇る季節の月にそう名づけたのだという。
花の月。
なるほど、と思った。あの夜の月は、たしかに「光」というよりは「咲いている」という言葉のほうが似合っていた。空の高いところで、音もなく、ただ静かに咲いている。そんな感じだった。
普段、夜道を歩くとき、僕はだいたい下を向いている。
スマートフォンの通知を確認したり、明日のスケジュールを頭のなかで反芻したり、足元の段差に気をつけたり。視線が地面より上に行くことは、正直に言えばほとんどない。
でもあの夜は、なぜか顔を上げた。
理由はよく覚えていない。たぶん、ケヤキの葉が風に揺れる音が聞こえたからだと思う。カサカサ、というよりは、サラサラという音。冬の枯れ葉とは違う、みずみずしい音。五月の葉にしか出せない音。
その音に誘われるように顔を上げたら、そこに月があった。
考えてみれば、月はいつもそこにいる。満ちたり、欠けたり、雲に隠れたりしながらも、毎晩のように空のどこかにいる。見上げさえすれば、いつでも会える。
でも、僕たちはなかなか見上げない。
それは忙しいからでも、興味がないからでもなくて、たぶん「そこにあること」をうっかり忘れてしまうからだ。当たり前にあるものほど、存在が透明になっていく。月も、新緑の匂いも、夜風のやさしさも。
あの夜、僕がケヤキの下で立ち止まっていた時間は、ほんの三分くらいだったと思う。
月を見て、葉っぱの影を見て、風の音を聞いて、それだけ。
でも、その三分間は、一日のなかで一番静かで、一番満たされた時間だった。
オフィスでどれだけ集中しても、カフェでどれだけおいしいコーヒーを飲んでも、届かなかった場所に、月の光はあっさりと届いた。
帰宅してから、ベランダに出てもう一度月を見た。
マンションの五階からだと、さっきとは少し角度が変わって、月は街の屋根の上にぽつんと浮かんでいた。さっき見た「木漏れ月」のほうが好きだな、と思いながら、缶ビールをひとくち飲んだ。
フラワームーンの夜。
花は咲いて、やがて散る。月は満ちて、やがて欠ける。でも、どちらもまた巡ってくる。五月のあの光は、来年の五月にもきっとそこにある。
大事なのは、そのとき顔を上げられるかどうかだ。
今夜の帰り道、少しだけ上を向いて歩いてみてほしい。もしかしたら、あなたの街路樹も、光をこぼしているかもしれないから。


